れせいか作文練習帳

ずぼらな大学生の備忘録です。

雑記、主にムーンライダーズについて

こんにちは。どうどうまがまがです。閲覧していただきありがとうございます。

 

特に書くこともないのですが、とにかく継続することが大事だと思って書いています。これも文章修行!

 

今回は本当に雑記です。

 

・最近本当に昼夜逆転してしまっている。3時ごろ寝て、正午ごろ起こる生活。やばいよね。

 

・意外とネットの情報って限られているんだ、と最近よく思う。ライターの吉田豪さんが言っていたことだと思うけれど、やっぱり「時間かお金をかけなければ説得力は出ない」と思う。これは言い換えれば、本当に必要な情報はタダじゃ手に入らねえぞ、ってこと。

 

・水おいしい。小さい頃はジュースが大好きで、「毎日ファンタグレープ飲みたい」と思っていたけれど、今はお金をもらっても嫌だなあ。

 

・今までTwitterアカウントは持っていたものの、有名人のツイートを見るくらいで、リア友とは繋がらず、フォロオワーも2人しかいないような状態だった。しかし、大学の先輩が卒業するのに際して、先輩のTwitterをフォローしてみた。その際には、今まで自分がしてきた意味不明のヤバいツイートを消し、私を知っている人だったら私だって分かるように変えた。Twitterのいやらしい部分として、その人が誰をフォローしているのかが分かるので、いくつかのフォローしている有名人の人はリストの方に入れて、フォロー解除もした。本当に、Twitterは自分の頭の中を見られているような気分で怖い。ある種、家族よりもディープな私をさらけ出してしまっているかも。先輩、フォローし返してください。

 

・夕暮れの山の稜線を見ていると心が締め付けられるような気持になる。行ったことがあるのに「あの山の向こうには何があるんだろう?」と思う。別に大したものなんてない。幸いがあるわけでもない。でも、そう考えることを止められない。自分の知らない何かが茫漠と広がっていると思うと、少しは気持ちも上向く。

 

・「自分の知らない」に関係するが、「自分の知らないこと」は本当に難しい。あまりにも「自分の知らないこと」だと怖い。ついていけない。嫌になってしまう。だけれど、いつも知っていることばかりだとつまらなくなってしまう。倦む。安心だけどね。私はとっても保守的なくせにすぐ「つまらなーい」って思ってしまう。勧められたマンガを読むだけでもすごい嫌がるくせに。勝手な人ね。

 

・最近ムーンライダーズの「何だ?この、ユーウツは!!」をめちゃリピってる。

曲調がどんどん変わって面白い。2回変わるのかな?最初はしんみりした曲だと思うんだけど、サビには憂鬱が破れ出るように盛り上がる。しかもハモって。二つの声が重なることで、一人の問題ではなく、様々な人の憂鬱の群体のようになっているようにも私には思われる。

正直、歌詞はどういう意味かよく分からないんだけど、それでも「イイ!!」と思ってしまう。

サビが「Dear my friend その手をつかんでいてあげる ひとりで立てるかい そんな夢から覚めて きみの心にたたずむ友達 ピーター、ケイト&ガープ 道に迷わないように 手を引いてくれる ぼくの肩につかまれば 山も越える」というんだけど、これはどういうことなんだ?

まず、夢の中にいる状態なのは「Dear my friend その手をつかんでいてあげる ひとりでたてるかい」の部分で、夢から覚めているのはそれ以降だよね?きっと。じゃあこの夢の中で語っているのは誰?これは話かけられているのであって、こちらが誰かに「その手をつかんでいてあげる」語りかけているわけではないと思う。

なぜならば、この詩の主人公は憂鬱だから。じゃあ、誰が話しかけてきている?この歌詞は主人公の憂鬱の吐露から始まる。盛り上がりに入る前に「My friend」に語りかけることはあっても、別の視点、別の登場人物が語り始める部分は、サビしかない。そしてそれは主人公の友達。

…とここまで書いてきて、夢の中にいるのはさっき指摘した部分ではない、と思い始めてきた。Bメロ、「Lonliness」の部分が夢ではないかと思い始めてきた。この部分で思いつめた後に、「その手をつかんでいてあげる」とピーター、ケイト&ガープが言って、夢から覚めているのでは?と思い始めてきた。

しかし、歌詞の最初では「Today 目がさめたら」と言っている。目が覚めた後に、もう一度夢から覚めるとはどういう意味?

ここは少し保留にして、友達のピーターらについて。ピーターは「ジェネシス」というバンドの「ピーター・ガブリエル」という人物らしい。ケイトは「ケイト・ブッシュ」というイングランドを代表する女性シンガーソングライター、そしてガープは『ガープの世界』(ユリイカのインタビューより)。

つまり、夢とは日常の憂鬱な気分であり、友達たるピーターたちがその悪夢から覚ましてくれているのではないか、と思ってきた。

しかし未だ疑問は残る。ピーターらの語りはどこまで?「山も越える」まで?しかし、ケイトが女性であることを考えると、「ぼくの肩につかまれば」という歌詞は少し、違和感がある。

しかし、そうなれば、登場人物は二人しかいないのだから、ここの部分は主人公が語っていることになる。彼ら、ピーターらが主人公の肩につかまれば山も越える、そうだが、これはどういう意味だろう。彼ら友達が宿るように、自分が作品を享受すれば、憂鬱が晴れて、何でもできる、みたいな?そんな感じ?

 

今日はこんな感じで終わろうと思います。閲覧ありがとうございました。

 

大好きな同人誌と「顔」

皆さんこんにちは、どうどうまがまがです。閲覧いただきありがとうございます。

 

今回の記事は多分にエロ要素を含みますので、大変申し訳ないのですが、苦手な方は閲覧をお控えください。よろしくお願いします。

 

一番最初の投稿で、「少しずつエロとは関係ない趣味をつくりたい」と言っていたのにも関わらず、舌の根も乾かぬうちにこんな話題をしていまい、すみません。なかなか難しいですね。「何か書きたい」という気持ちはあるのですが、特に書きたいネタがあるわけではないので、こういう話題を選んでしまいました。本当にすみません。

 

それでは本題に入ろうと思います。今回は私の大好きな同人作家さんを紹介させていただこうかと思います。

 

それは「だぶるでっく」先生です。

人外界隈にお詳しい方ならば知っている方も多いのではないでしょうか?今ちらりとDLsiteを見たら、最新作の「逢瀬」(八尺様の同人誌)は販売数3000以上、代表作の「END OF LOCATION」(サイレントヒルのバブルヘッドナースをモチーフにした同人誌)は販売数5000を超えているので、改めて大変な人気作家さんだなと思いました。

 

人外もの、特に「ガチめ」というか、擬人化とかのレベルではない人外、にも関わらずこれだけの販売数を誇るのは本当にすごいことです。

 

私が最初に購入した作品、かつ最も好きな作品は「PHASE4ー第4種接近遭遇ー」という宇宙人ものなのですが、未だにこれより好きな同人誌には出会っていないほど私の性癖には刺さりました。

 

あらすじを言いますと、グレイ型の宇宙人にさらわれた主人公が搾りとられる、というものなのですが、このグレイ型の宇宙人が変形するシーンが私はたまらなく好きです。変形したと言っても、擬人化して美少女になったりはしません(美少女宇宙人もの、というのは結構あります)。あくまでグレイです。しかし、そこが私のような人たちには良いのです。この恐怖感と劣情が入り混じったような奇妙な感情がとても興奮します。

 

完全に顔がモンスターやクリーチャーで体が女性、というのはとてもニッチなジャンルなので、「だぶるでっく」先生は大変ありがたい存在です。またグロ表現がないこと、絵柄が劇画的なところも氏の大きな特徴だと思います。どちらも私としてはありがたい点です。

 

次回はモンスターハンターのジャギィノスをモチーフに書くと、Twitterで仰っていたので、大変楽しみにしています。

 

さて、以上で紹介は終わりです。ここからは私の性癖の分析をしたいと思います。先に申しました通り、私は顔がクリーチャーで身体が女性というニッチなジャンルを好みます。「PHASE4」の説明で言ったように、顔と体のギャップに興奮するのですが、それはなぜでしょうか?そういえば、「モブ顔スケベボディー」というジャンルもありまして、そちらも好みます。単純に考えれば、顔もかわいくて、体も肉感的な方がいいに決まっています。しかし、意外とそういうものだと興奮しないのです。

 

先に顔と体のギャップ、ということを挙げましたが、殊、性に関して言えばあまり顔は重要視されないのではないでしょうか?体だけの画像を見て抜くことはできますが、顔だけ見て抜くという人は、私の経験上聞いたことがありません。果たして人は顔だけ見て抜けるものなのでしょうか。

 

ここで私はレヴィナスを思い出しました。なぜなら彼のテーマは「顔」だからです。ここで私はレヴィナスについて学問的な話をすることはできません(難しいので、全く分かっていません。ただの連想だと思ってみていただければと思います)。

 

凄い薄い知識ですが、確かレヴィナスによると、顔とは究極の他者性であって、同一性の暴力を拒否するものと言われていたと思います。違っていたらすみません、ご指摘いただければと思います。人は社会の中で、円滑な運営のために同一化される。しかし顔こそはどうしても同一化できないものであり、絶対的な他者、差異であり続ける。そしてそれと向かい合うのが倫理~、みたいな話じゃなかったかな?

 

そう考えると、性というのは暴力そのものではないでしょうか。顔を拒否して身体だけを見ようとすることは本来倫理的な関係を強いられている普段の関係から抜け出し、あくまで人を均一化しようとすること、差異をなくそうとする暴力そのものな気がしてしまいます。

 

確かに、同人誌を探すときや風俗サイトなどではカテゴリーで検索をかけると思います。これは一人一人が完全に同一化できないものとして捉えていたならばできないはずです。つまり、これは性に関して言えば容易に類型化が起きていることの証拠ではないでしょうか。「〇〇という条件に当てはまれば、この人ではなくてもよい」ということが顔がない場合には起きてしまうように思います。

 

一方で、恋愛はそうはいかないでしょう。恋愛はあくまでもかけがえのない個同士の関係であるように思います。「30項目中、27項目が当てはまるので、前の彼女さんとは別れて、この人と付き合ってください」と言われてもなかなか納得することはできないと思います。また結婚されている人など、一緒にいる時間が長くなればなるほど、そのかけがえのなさ、というものは強くなるように思います。

 

だから性を越えた関係になると、自分の思い通りにはならなくても、それだけでは簡単に別れられないのだと思います。

 

このように顔を無視する性というものは本質的に暴力的なんじゃないか?と個人的には思います。ですが、だからと言って、私は同人作家さんたちを批判する気持ちは毛頭ありません。あれらはあくまでフィクションだからです。みんながフィクションだと認めているので問題はないと思います。

 

しかし、自分の中にそのような暴力性が潜んでいるということは十分認識していなければと思いました。

 

 

閲覧ありがとうございました。

ヒューズ

どうどうまがまがです。閲覧していただきありがとうございます。

 

今回は「想像力」について考えようと思います。いや、「感性」、「繊細さ」と言い換えても良いかもしれません。

 

まず、なぜ想像力について書こうと思ったのか、という点についてから説明したいと思います。

 

それは私が皆無と言うほど「想像力」がなくなったからです。元々そこまで想像力豊かではなかったと思いますが、小説を読んでいて何となく登場人物の顔や、小説の舞台となる場所をイメージすることが出来ました。しかし、今やそんなことも出来なくなってしまいました。最近は小説も読んでいないので、「イメージ力がなくなったから小説を読まなくなったのか」、それとも「小説読まなくなったからイメージ力がなくなったのか」はよく分かりません。でもきっと相互作用的なのでしょう。

 

そこで、想像力というものについて考えてみようと思ったわけです。

 

現在では赤毛のアンでなくても想像力の大切さを多くの人が強調します。特に「唯一無二なクリエイティブ」な人物像が求められる2000年代以降は、その傾向に拍車がかかっているように思います。また、クリエイティブという面だけではなく、「想像力のない人だ…」というのが相手を思いやる気持ちがないことを非難する言葉として使われるように、良い人になるためにも想像力は必要であると考えられています。

 

確かに、ここまで見ると想像力は大変大事なものです。

 

しかし本当にそうでしょうか?私自身の経験を振り返ってみると、むしろ想像力というのは邪魔なものですらあったのではないか?とも思います。

 

私は小さなころ、とても怖がりでした。未だにホラー・スプラッタ映画は見ることが出来ません。あまりにも怖がりで、自分の妄想で頭痛等、具合が悪くなることも何度もありました。しかし、今はめったにこういうことはなくなりました。

 

これは何故でしょう?それは「ヒューズを切る」ことを覚えたからです。私は「不思議ネット」という2chのまとめサイトが好きで、中高生の時によく見ていました(今もために見ます)。このサイトは、そこまで怖いサイトではないのですが、たまにポッカキットやトカナなどのもう少し過激な他サイトに飛ばされてしまうことがあります。

 

そういうとき、私は「ヒューズ」を切っていました。この「ヒューズを切る」とは感情を無にするということです。つまり今見たグロ・ホラー画像に対して何も考えない。思い出さない。そしてエロ画像を見る(因みに私は妄想してオナニーすることはほぼありません)。そうすると別の刺激で中和されるため、ダメージがゼロになる。そういうことを繰り返していました。

 

こういうことを繰り返していると、精神的なダメージはほぼゼロになります(無敵!!)。家の中でも暗闇を恐れたり、一日中頭が痛くなったりすることはありません。しかし、その代わりのように虚無に襲われます。苦みを感じたくないあまり、味のないものを食べるようになったような気分です。

 

これはすごく感覚的な話なので伝わりづらいと思うのですが、「人は何かの刺激を受けた時よりも、記憶としてそれを処理しているときの方が、頭が働いているのではないか」と私は思います。つまり、何か出来事があったというだけでは不十分で、それを何等か意味づけたりして記憶として処理したり反芻して思い出したりし、自分のフィルターを通して消化しないと大切な経験にならないのではないか、と思うのです。

 

だから、この作業をしなくなると、頭に何も入っていない、というか経験として残っていない気がします。

 

だから私の場合で言えば、「ヒューズを切る」ようになってからの生活というのは、あまり記憶に残っていません。時間だけが流れて行っている感じです。

 

しかし、逆に言えば、このようにしなければやってこれなかったのでは?とも思います。昔、どこかのビール会社のcmで「次の日のために飲んで忘れられるのもスキルでしょ」というものがありましたが、このように人間はあまりにも真剣に考えすぎるとやってられない時があるのでしょう。

 

認めたくないのですが、私も確かにオナニーを始めたあたりからあまり深刻に悩まなくなりました。年頃ということもあると思いますが、それ以前の日記を見ているとなかなか鬼気迫るものがあります。現在は満足した豚になった感じです。

 

真剣に考えるあまり、別の意味で「ヒューズを切る」ことはなんとしても避けたいことですが、なんとか目の前の現実を真剣に受け止め、消化し、記憶として定着させ、反芻し、向かい合い続けたい、せめてその努力をしようとする姿勢だけは崩さないようにしたいと思います。

 

ここまで、長々書きましたが、簡単に言うと、「あんまり想像力豊かすぎる(感性豊かすぎる、真剣に捉えすぎる)と人生しんどい。だけど、やっぱり想像力(及び感性、真剣に深く考えられる力)は捨てたくない」というだけです。

 

閲覧していただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

当ブログのご説明 暇は恐ろしい

当ブログを閲覧していただきありがとうございます。

 

私は特に筆記するようなこともない大学生です。

 

当ブログを開始しようと思ったのは、趣味をつくりたいと思ったためです。私は本当に無趣味で、休みの日はYouTubeを見たり、自慰をしたりするだけで、貴重な時間を空費してしまっています。

 

親もこんなことをさせるために、心血注いで育てたのではないと思うのですが、こんな人間になってしまいました。

 

世の中には「無趣味だっていいじゃないか!」と言ってくれる優しい方もいらっしゃいます。しかし、やっぱり無趣味は良くないと私は思います。

 

そう思うのは家族からの影響です。私は祖父と一緒に暮らしているのですが、その祖父も無趣味な人で、家族に対して余計な世話ばかり焼いています。特に用事がなくても定期的に部屋に入ってきては「居るな…」と一言呟いて出ていきます。こっちが「どうしたの?」と言っても無視して出ていくだけです。きっと自分にやることがないから、こういうことをしているのだと思います。また昼間でも、出かけるとうるさく「どこに行くんだ」と訊きます。でも、本人が出かけるときには、こちらが尋ねても濁した答えしかしません。

 

それに、ストレスを発散するように毎日必要のないものを買っているようです。先日は5万円以上するような高価なものを衝動買いしてしまったので、少し困っています。私は祖父母に「うちにはお金がないから」と言い続けられて育ったので、少し悲しい気持ちになりました。

 

それに、加えて祖父はお酒もたくさん呑みます。これも無趣味からでしょう。それが災いして数年前には脳梗塞になりました。その時には私たち家族一同大変心配したのですが、幸い、後遺症なく退院することが出来ました。しかし、その後もお酒は止められておらず、結局未だに毎日晩酌しています。また、一度目の入院から2年後、再度、脳梗塞の再発で入院しています。

 

でも、そんな祖父も、もともとこんな人ではなかったのです。元々は幹部自衛官で大変仕事のできる聡明な人だったと聞きます。そんな人でもやることがないと、こんな風になってしまうのか、と思うと、暇の恐ろしさを感じざるを得ません。

 

私は祖父程優秀な人間ではありません。しかも、既に若干ネットポルノ中毒に陥ってしまっていると思います。何度も何度も「もうネットでエロ画像を見るのは止めよう」と思って試みてきましたが、尽く失敗に終わっています(やっぱり今の時代、スマホ断ち、ネット断ちが難しいことが大きな要因だと思います)。私自身、特に性欲が強いとは思いません。やることがないから、刺激を求めているだけだと思います。

 

こんな状況では将来が危ぶまれます。人に迷惑をかけながら、下らない一生を送るでしょう。資源の無駄でしかない一生です。

 

ですが、私は「死にたい」とかはぜんぜん思いません。なんとか生活を立て直さなきゃ、と思うだけです。

 

だから、趣味をつくるべく、こうしてブログを開設してみました。

 

「何不自由なく暮らしているくせに、なんて罰当たりなやつだ。世の中にはもっと厳しい状況の中でも立派に頑張っている人がいるんだぞ」という意見には全面的に同意します。しかし、だからといって、私が今すぐ変われるわけではありません。少しずつ少しずつ頑張っていきたいと思います。

 

「このブログって何が面白くて閲覧する人がいるんだろう?」とも思いますが、もし見ていただけるようでしたらとてもうれしく思います。

 

よろしくお願いします。